会社情報
会社概要
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社名
株式会社丸五(Marugo Company Inc.)
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代表者
代表取締役社長 福田 正彦
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所在地
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本社/工場
〒710-1101 岡山県倉敷市茶屋町1680-1
TEL.086-428-0230(代) FAX.086-428-7551 -
東京営業所
〒104-0031 東京都中央区京橋1-17-1
昭美京橋第2ビル 2階
TEL.03-3566-6105 FAX.03-3566-6108
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直営店
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MARUGO TOKYO
〒104-0031 東京都中央区京橋1-17-1
昭美京橋第2ビル 1階 (東京営業所内)
TEL.03-3566-6107
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MARUGO KURASHIKI
〒710-0046 岡山県倉敷市中央1丁目4-13
(倉敷美観地区 倉敷SOLA内)
TEL.086-489-6948
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KOYAYA
〒710-1101 岡山県倉敷市茶屋町1680-1
(本社前)
TEL.086-428-0230
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海外拠点
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撫順萬泰実業有限公司
中国:撫順
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丸五(上海)商貿有限公司
中国:上海
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創立
1919年5月4日(大正8年)
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資本金
3,000万円
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年商
47億
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従業員数
140人
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所属団体
日本ゴム工業会、 日本ゴム履物協会、 岡山ゴム工業会、 公益社団法人日本保安用品協会、 日本プロテクティブスニーカー協会、 日本グローブ工業会、 一般社団法人日本DIY協会
沿革
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1919
大正8年丸五足袋株式会社設立
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1924
大正13年ドイツ人技師を招聘、革靴製造を開始
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1925
大正14年運動靴・ゴム短靴製造開始
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1926
大正15年摂政宮殿下(昭和天皇)甘露寺侍従御差遣
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1927
昭和2年岡山~茶屋町マラソン主催
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1931
昭和6年東京出張所開設
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1932
昭和7年万年軍手の製法特許を取得、朝鮮半島、中国、台湾へ輸出
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1942
昭和17年工業用品の製造開始
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1951
昭和26年三笠宮崇仁殿下工場御視察
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1954
昭和29年倉敷工場を分離、丸五ゴム工業株式会社設立
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1961
昭和36年丸五足袋株式会社を丸五工業株式会社に改称
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1964
昭和39年日本工業規格JIS許可工場となる
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1987
昭和62年東京営業所開設
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1995
平成7年中国遼寧省撫順市に撫順萬泰実業有限公司を設立
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1999
平成11年社名を株式会社丸五と改める
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2002
平成14年品質マネジメントシステム「ISO9001」認証取得
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2003
平成15年日本プロテクティブスニーカー協会設立参加
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2006
平成18年環境マネジメントシステム「ISO14001」認証取得
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2010
平成22年中国上海市に丸五(上海)商貿有限公司を設立
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2011
平成23年経済産業省 製品安全対策優良企業表彰/商務流通審議官賞を受賞
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2013
平成25年中央労働災害防止協会より緑十字賞を受賞
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2015
平成27年丸五ホールディングス株式会社を設立
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2018
平成30年地域未来牽引企業に選定
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2019
令和元年創立100周年を迎える
直営店「MARUGO TOKYO」をオープン -
2020
令和2年倉敷市より「倉敷の老舗」企業として感謝状を授与
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2021
令和3年工業用品新工場が完成・稼働
直営店「KOYAYA」をオープン
中央労働災害防止協会より緑十字賞を2度目の受賞 -
2022
令和4年直営店「MARUGO KURASHIKI」を倉敷美観地区にオープン
ごあいさつ──足袋のはなし
女性の方は、いや男性でも、キモノを着た経験のある方は、足袋を履かれたことがあると思います。お祭りで神輿、だんじりや踊りに参加した経験のある方は地下足袋を履かれたことがあるかもしれません。足袋(あるいは地下足袋)は日本独特の履物です。どんなルーツがあるのでしょう?
そもそも履物というものは洋の東西を問わず冬の寒さや夏の熱い地面、あるいは切り株や尖った石などから足を守るために生み出されたものでしょう。板状の革に革紐で足を固定するサンダルのような履物は西洋に古くからありました。日本でも木の板に足指で挟む突起をつけた田下駄が稲作で使われていたことがわかっていますね。草を編んで履物の形にしたものが草履(ぞうり)です。稲わらで作るようになって藁草履となりました。草鞋(わらじ)は藁紐を長くして踵の固定を行い、より長距離での使用に耐えるようになりました。寒さをやわらげるために革で足の袋を作ったものが足袋、足指で鼻緒を挟むために拇指と他の指を分離した足袋(単皮、たび)を作るようになっていきます。足袋の始まりです。その後中世以降綿花の普及とともに綿製の足袋が支配階級を中心に普及していくことになります。
古来より「くつ」は権威の象徴でもありました。西洋では司教や裁判官が木靴や革製で底の厚いハイヒールのようなものを履いており、日本でも神官や貴族が木沓や布沓を履いていました。西洋ではそれが大衆化して革製の靴を作るようになりましたが、日本では、庶民は鼻緒と決別せず、草履や草鞋を履くようになっていきました。その理由は定かではありませんが、材料の入手し易さや気候の影響、生活様式として室内では履物を履かない、などが考えられると思います。
江戸時代になると綿花の栽培が盛んになり、寒さ対策だけでなく、正装の一部として足袋(白足袋)が使われるようになります。生地にも工夫が凝らされ、岡山県で雲斎織が誕生します。厚手の綾織りで丈夫で履き心地の良い足袋として人気を呼びました。江戸の末期から明治にかけて金属製のこはぜが使われるようになり、現在の足袋の形が出来上がりました。岡山県南でも綿花の栽培が盛んで倉敷地域は明治期には全国有数の足袋の産地となりました。ちなみに岡山で生まれた雲斎織は高級な足袋の生地として使われましたが、その後軍服に使われ、戦後は学生服に応用され、さらにその技術はデニム生地に活かされています。現在の児島デニムの発祥は足袋生地にあったわけです。
株式会社丸五は、1919年(大正8年)、丸五足袋株式会社として創立いたしました。当時、地域の一大産品であった足袋と新素材であったゴムを融合し、地下足袋の一貫生産を開始しました。これからも、人々の生活の安全と安心を、足元より支えていくことを基本に置いて、さまざまな商品やサービスを提案し続けてまいります。グローバルに活躍する様々なパートナーのみなさんや、地域社会のみなさまのご支援をいただきながら、新しい価値の創造を通じて、より明るい未来社会に貢献していきたいと考えています。
代表取締役会長 藤木茂彦